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万葉集② 「つれづれ樹」 [育まれる(歴史)]

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高市皇子の尊の、城上(きのへ)の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌

挂文 忌之伎鴨 言久母 綾尓畏伎 明日香乃 真神之原尓 久堅能 天都御門乎 懼・母 定而  
かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き   明日香の    真神の原に    久かたの 天(あま)つ御門(みかど)を  畏くも 定めたまひて
神佐扶跡 磐隠座 八隅知之 吾大王乃 所聞見為 背友乃国之 真木立 不破山越而 
神(かむ)さぶと 磐隠(いはがく)ります やすみしし  我が王(おほきみ)の きこしめす   背面(そとも)の国の    真木立つ  不破山越えて

狛剣 和射見我原乃 行宮尓 安母理座而 天下 治賜 食国乎 定賜等 鶏之鳴 
高麗剣(こまつるぎ) 和射見(わざみ)が原の   行宮(かりみや)に 天降(あも)り座(いま)して  天の下  治めたまひ 食(を)す国を 定めたまふと 鶏(とり)が鳴く
吾妻乃国之 御軍士乎 喚賜而 千磐破 人乎和為跡 不奉仕 国乎治跡 皇子随 任賜者
東(あづま)の国の  御軍士(みいくさ)を    召したまひて 千磐(ちは)破る  人を和(やは)せと   奉(まつ)ろはぬ 国を治めと  皇子ながら 任(ま)きたまへば
大御身尓 大刀取帶之 大御手尓 弓取持之 御軍士乎 安騰毛比賜 斎流 鼓之音者
大御身(おほみみ)に  大刀取り帯ばし   大御手(おほみて)に  弓取り持たし  御軍士を    率(あども)ひたまひ  整ふる  鼓(つつみ)の音は
雷之 声登聞麻デ 吹響流 小角乃音母 敵見有 虎可吼登 諸人之 恊流麻デ尓 
雷(いかつち)の 声と聞くまで  吹き響(な)せる 小角(くだ)の音も    敵(あた)見たる 虎か吼ゆると  諸人の    おびゆるまでに
指挙有 幡之靡者 冬木成 春去来者 野毎 著而有火之 風之共 靡如久 
差上(ささ)げたる 幡(はた)の靡きは  冬こもり  春さり来れば  野ごとに つきてある火の  風の共(むた)  靡くがごとく
取持流 弓波受乃驟 三雪落 冬乃林尓 飃可毛 伊巻渡等 念麻デ 聞之恐久 
取り持たる 弓弭(ゆはず)の騒き   み雪降る  冬の林に    旋風(つむし)かも  い巻き渡ると 思ふまで   聞きの恐(かしこ)く
引放 箭之繁計久 大雪乃 乱而来礼 不奉仕 立向之毛 露霜之 消者消倍久
引き放つ 矢の繁けく    大雪の    乱りて来(きた)れ 奉(まつろ)はず  立ち向ひしも 露霜(つゆしも)の  消(け)なば消ぬべく
去鳥乃 相競端尓  渡会乃 斎宮従 神風尓 伊吹或之 天雲乎 日之目毛不令見 
去(ゆ)く鳥の  争ふはしに   度會(わたらひ)の  斎(いは)ひの宮ゆ 神風に  息吹(いぶき)惑はし  天雲(あまくも)を  日の目も見せず

常闇尓 覆賜而  定之 水穂之国乎 神随 太敷座而 八隅知之 吾大王之 
常闇(とこやみ)に 覆ひたまひて 定めてし  瑞穂の国を    神ながら 太敷き座(いま)す  やすみしし  我が大王の
天下  申賜者 万代尓 然之毛将有登 木綿花乃 栄時尓 吾大王 皇子之御門乎 
天の下 奏(まを)したまへば 万代(よろづよ)に 然(しか)しもあらむと   木綿花(ゆふはな)の   栄ゆる時に 我が大王   皇子の御門を

神宮尓 装束奉而 遣使 御門之人毛 白妙乃 麻衣著 埴安乃 御門之原尓 
神宮(かむみや)に 装ひ奉(まつ)りて  遣はしし 御門の人も   白布(しろたへ)の 麻衣(あさころも)着て 埴安(はにやす)の 御門の原に
赤根刺 日之盡 鹿自物 伊波比伏管 烏玉能 暮尓至者 大殿乎 振放見乍 
あかねさす 日のことごと 獣(しし)じもの い匍ひ伏しつつ   ぬば玉の  夕へになれば 大殿(おほとの)を  振り放け見つつ
鶉成 伊波比廻 雖侍候 佐母良比不得者 春鳥之 佐麻欲比奴礼者 嘆毛 未過尓 
鶉なす  い匍ひ廻(もとほ)り 侍(さもら)へど  侍ひかねて       春鳥の   さまよひぬれば      嘆きも いまだ過ぎぬに
憶毛 未不盡者 言左敝久 百済之原従 神葬 々伊座而  朝毛吉 木上宮乎 
憶(おも)ひも いまだ尽きねば 言(こと)さへく   百済(くだら)の原ゆ  神葬(かむはふ)り 葬り行(いま)して  あさもよし  城上の宮を
常宮等 高之奉而 神随 安定座奴 雖然 吾大王之 万代跡 所念食而 
常宮(とこみや)と 定め奉(まつ)りて 神ながら 鎮まり座(ま)しぬ しかれども 我が大王の  万代と    思ほしめして
作良志之 香来山之宮 万代尓 過牟登念哉 
しかれども 我が大王の      万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思(も)へや
天之如 振放見乍 玉手次 懸而将偲 恐有騰文
天(あめ)のごと 振り放け見つつ 玉たすき  懸けて偲はむ  畏かれども





「背面(そとも)の国」 「高麗剣(こまつるぎ) 和射見(わざみ)」 「行宮(かりみや)に」 「食(を)す国を 定めたまふと 鶏(とり)が鳴く」 
「東(あづま)の国の御軍士(みいくさ)を召したまひて 千磐(ちは)破る人を和(やは)せと 奉(まつ)ろはぬ国を治めと  皇子ながら 任(ま)きたまへば 敵(あた)見たる虎か吼ゆると 諸人のおびゆるまでに」  ・・・・・


 万葉集は柿下人麻呂が 漢語表記ではない この国の話し言葉を表現しようとした。
 使用された漢字自体には 意味を置かず  「読み方の表音」・・・ が 万葉集であるとされる。
 
 万葉集を「起草(?)」した「柿下人麻呂」は 万葉集の中にしか 存在しない。

 これだけの・・・ 「柿下人麻呂」は、何故 歴史的に抹殺されてるのだろう。
 それでも 「万葉集」の内に存在する彼は 「万葉集」が作製され続ける中で・・・
 消そうとしても 消すことなどできぬ 「圧倒的な作品の」 根幹を為す 存在意義をもつ人物だった。
 万葉集の「そこはかとない・・」歩みが出来上がってしまってたからこそ。
 古事記が醸しだされ・・・・・  人工的に日本書紀を作らねばならなかった。。。 ・・か!

 そんな具合に感じれば・・
 話し言葉の漢字表記を 作り上げた「柿下人麻呂」に 「?」を感じる。
 「万葉集」 同時期に漢語の「懐風藻」も 編纂され形となるのは・・記紀よりも後ですが。
 漢字の意味を全く「無視」して 漢字表記で「この国言葉(口語)」の、、
 それも 恐ろしいくらいの「極み」の 詩的技術&表現を 完成させた。
 当然 素人的な発想としては・・ 漢字表記の「内」に・・・
 「しのばされた」暗号的意味合い・・・ 無いもんか 探してみたい。。。。

 ニワトリ・・ 人類により、ヤケイから早い時期に家禽化されたが、端緒は食用ではなく、祭祀用であったと推定されている。
最初にニワトリを家畜化した中国南部は今でも飼育密度が高いとのこと。
「鶏(とり)が鳴く」は 枕詞として「東(あづま)の国」に掛かるという。ところが・・ これが喧々諤々&魑魅魍魎状態で 何故 枕詞とされるのか 見解が分かれ続けるとのこと。

 昔ビトは 現代人なんかと異なり・・ ニワトリが鳴かなくとも 朝起きてます。
早朝の 静けさを 台無しにする喧しいだけの 「コッケー!!」です。
「東(あづま)の国」(関東)には 騒がしい方が住まわれてたのでしょう。
 倭言葉と イントネーションの異なる。
万葉集の時代は 漢語ではなく、、 口語・ひらがなが 醸し出される流れだった。


 【 高市皇子の尊の、城上(きのへ)の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌 】
とは、「背面(そとも)の国」「高麗剣(こまつるぎ)」「食(を)す国を 定めたまふと 鶏(とり)が鳴く」 
「東(あづま)の国の御軍士(みいくさ)を召したまひて 千磐(ちは)破る人を和(やは)せと 奉(まつ)ろはぬ国を治めと  皇子ながら 任(ま)きたまへば 敵(あた)見たる虎か吼ゆると 諸人のおびゆるまでに」・・・

 この国は 漢人の侵略を 受けていますよ。。。
 って、 話し言葉を漢字表記で 無理やりにでも 表すとしながら・・・
 裏では 漢字表記の内に メッセージ 残したのではないか。

 背友乃国之・狛剣・食国乎 定賜等 鶏之鳴 吾妻乃国之 御軍士乎・不奉仕 国乎治跡・敵見有 虎可吼登 諸人之 恊流麻デ尓・百済之原従・・・・・。



 ウィキペディアより
 高市皇子(たけちのみこ・たけちのおうじ、654年(白雉5年)

? - 696年8月13日(持統天皇10年7月10日))は、
日本の飛鳥時代の人物で、天武天皇の皇子(長男)である。旧仮名遣いでの読みは同じ。後皇子尊(のちのみこのみこと)と尊称される。
672年の壬申の乱勃発時、高市皇子は近江大津京にあり、挙兵を知って脱出し父に合流した。若年であったが美濃国の不破で軍事の全権を委ねられ、乱に勝利した。679年に天武天皇の下で吉野の盟約に加わり、兄弟の協力を誓った。この後には他の皇子とともにしばしば弔問に遣わされた。686年に持統天皇が即位すると、太政大臣(知太政官事)になり、以後は天皇・皇太子を除く皇族・臣下の最高位になった。
天武天皇の第一皇子で、胸形尼子娘を母とする。母の父は胸形君徳善である。正妃は天智天皇皇女御名部皇女(元明天皇の同母姉)で、この間の子が長屋王である。他に子供は鈴鹿王、河内女王、山形女王。また万葉集によれば異母妹但馬皇女が邸内にいたという。とすると但馬皇女が妻または養女であった可能性がある。また、異母姉で弘文天皇妃の十市皇女が急死した際に情熱的な挽歌を詠んだために、この二人が恋人同士若しくは夫婦であったのではないかとの説もある。



 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ、男性、660年頃~720年頃)は、飛鳥時代の歌人。三十六歌仙の一人。

 柿本氏は孝昭天皇後裔春日氏族で、父は柿本大庭、柿本朝臣猨は兄弟ともされる[1]が、同時代史料には人麻呂の来歴によるべきものはなにひとつなく、一切は不明とみるほかない。
彼の経歴は『続日本紀』等の史書にも書かれていないため定かではなく、『万葉集』の詠歌とそれに附随する題詞・左注などが唯一の資料である。一般には天武天皇の9年(680)には出仕していたとみられ(『万葉集』巻10・2033左注)、天武朝から歌人としての活動をはじめ、持統朝に花開いたとみられることが多い。ただし、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌(『万葉集』巻2・217-219)を詠んでいることから、近江朝にも出仕していたとする見解もないではない(北山茂夫)。
賀茂真淵によって草壁皇子に舎人として仕えたとされ、この見解は支持されることも多いが、決定的な根拠があるわけではない。複数の皇子・皇女(弓削皇子・舎人親王・新田部親王など)に歌をたてまつっているので、特定の皇子に仕えていたのではないだろうとも思われる。近時は宮廷歌人であったと目されることが多い(伊藤博・橋本達雄など)が、宮廷歌人という職掌が飛鳥時代にあったわけではなく、結局は不明というほかない。ただし、確実に年代の判明している人麻呂の歌は持統天皇の即位からその崩御にほぼ重なっており、この女帝の存在が人麻呂の活動の原動力であったとみるのは不当ではないと思われる。後世の俗書(『人丸秘密抄』など)では、持統の愛人であったとみるような曲解もあらわれてくるが、これはもとより小説である。
『万葉集』巻2に讃岐で死人を嘆く歌(巻2・220-222)が残り、また石見国は鴨山での辞世歌と、彼の死を哀悼する挽歌(巻2・223-227)が残されているため、官人となって各地を転々とし最後に石見国で亡くなったとみられることも多いが、この辞世歌については、人麻呂が自身の死を演じた歌謡劇であるとの理解(伊藤博)や、後人の仮託であるとの見解も有力である。また、文武4年(700年)に薨去した明日香皇女への挽歌が残されていることからみて、草壁の死後も都にとどまっていたことは間違いない。藤原京時代の後半や、平城京遷都後の確実な作品が残らないことから、平城京遷都前には亡くなったものと思われる。
彼は『万葉集』第一の歌人といわれ、長歌19首・短歌75首が掲載されている。その歌風は枕詞、序詞、押韻などを駆使して格調高い歌風である。また、「敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ」という言霊信仰に関する歌も詠んでいる。長歌では複雑で多様な対句を用い、長歌の完成者とまで呼ばれるほどであった。また短歌では140種あまりの枕詞を使ったが、そのうち半数は人麻呂以前には見られないものである点が彼の独創性を表している。

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