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万葉集① 「つれづれ樹」 [育まれる(歴史)]

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ウィキペディアより
 『万葉集』(まんようしゅう、萬葉集)とは、7世紀後半から8世紀後半頃にかけて編まれた、日本に現存する最古の歌集である。

 巻1の後半部分+巻2増補…2巻本万葉集
持統天皇を「太上天皇」、文武天皇を「大行天皇」と表記。元明天皇の在位期を現在としている。元明天皇や太安万侶が関与したか。

 太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)とは、皇位を後継者に譲った天皇に送られる尊号。上皇(じょうこう)と略することが多い。由来は、中国の皇帝が位を退くと「太上皇」と尊称されたことにあるとされる。また、出家した上皇を、太上法皇(法皇・ほうおう)と称する。太上天皇は「院」と称されることも多い。

 大行天皇(たいこうてんのう)は、天皇が崩御(死去の意)した後、追号が贈られるまでの呼称。 大行は「大いなる行ない」を意味し、ここでは死去した天皇への顕彰を表す語として用いられている。


 
 残巻増補…20巻本万葉集
延暦2年(783年)頃に大伴家持の手により完成。
ただし、この『万葉集』は公に認知されるものとはならなかった。延暦4年(785年)、家持の死後すぐに大伴継人らによる藤原種継暗殺事件があり、家持も連座したためである。その意味では、『万葉集』という歌集の編纂事業は、恩赦により家持の罪が許された延暦25年(806年)にようやく完成したといってよい。


 巻十四だけが東歌(あずまうた)の名をもっている。この卷には、上総・下総・常陸・信濃四国の雑歌、遠江・駿河・伊豆・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥十二国の相聞往来歌、遠江・駿河・相模・上野・陸奥五国の譬喩歌・国の分からないものの雑歌、相聞往来歌・防人歌・譬喩歌・挽歌・戯咲歌などが収められている。
歌を作った時期により4期に分けられる。
 第1期は、舒明天皇即位(629年)から壬申の乱(672年)までで、皇室の行事や出来事に密着した歌が多い。代表的な歌人としては額田王(ぬかたのおおきみ)がよく知られている。ほかに舒明天皇・天智天皇・有間皇子・鏡王女(かがみのおおきみ)・藤原鎌足らの歌もある。
 第2期は、平城遷都(710年)までで、代表歌人は、柿本人麻呂・高市黒人(たけちのくろと)・長意貴麻呂(ながのおきまろ)などの官人達の儀礼的な場での宮廷賛歌や旅の歌などが有名である。他には天武天皇・持統天皇・大津皇子・大伯皇女・志貴皇子などである。
 第3期は、733年(天平5)までで、個性的な歌が生み出された時期である。代表的歌人は、自然の風景を描き出すような叙景歌に優れた山部赤人(やまべのあかひと)、風流で叙情にあふれる長歌を詠んだ大伴旅人、人生の苦悩と下層階級への暖かいまなざしをそそいだ山上憶良(やまのうえのおくら)、伝説のなかに本来の姿を見出す高橋虫麻呂(むしまろ)、女性の哀感を歌にした坂上郎女(さかのうえのいらつめ)などである。



「万葉仮名」
 全文が漢字で書かれており、漢文の体裁をなしている。しかし、歌は、日本語の語順で書かれている。歌は、表意的に漢字で表したもの、表音的に漢字で表したもの、表意と表音とを併せたもの、文字を使っていないものなどがあり多種多様である。
 編纂された頃にはまだ仮名文字は作られていなかったので、万葉仮名とよばれる独特の表記法を用いた。つまり、漢字の意味とは関係なく、漢字の音訓だけを借用して日本語を表記しようとしたのである。その意味では、万葉仮名は、漢字を用いながらも、日本人による日本人のための最初の文字であったと言えよう。

 現在でも万葉仮名は至る所で使用されており、難読地名などの多くは万葉仮名に由来するものが多い。


 『万葉集』は全巻で20巻であるが、その巻頭の歌が、雄略天皇の歌で始まっている。奈良時代の人々においても雄略天皇が特別な天皇として意識されていたことを示す。

 大泊瀬稚武(おほはつせわかたける)天皇の御製歌(おほみうた)
籠(こも)よ み籠(こ)持ち掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち この岳(をか)に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家告(の)らせ 名告(の)らさね そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(を)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われにこそは 告(の)らめ 家をも名をも(巻1・1番)
篭毛與 美篭母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家告閑 名告紗根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母


 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう、允恭天皇7年(418年)12月 - 雄略天皇23年8月7日(479年9月8日))は、第21代の天皇(在位:安康天皇3年11月13日(456年12月25日) - 雄略天皇23年8月7日(479年9月8日))。
 紀によれば安康天皇3年(456年)8月、安康天皇が幼年の眉輪王(まよわのおおきみ、古事記では7歳)により暗殺されたという。これを知った大泊瀬皇子は兄たちを疑い、まず八釣白彦皇子を斬り殺し、次いで坂合黒彦皇子 ・眉輪王をも殺そうとした。この2人は相談して葛城氏の円大臣(つぶらのおおおみ)宅に逃げ込んだが、大臣の助命嘆願も空しく、大泊瀬皇子は3人共に焼き殺してしまう。さらに、市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ、仁賢天皇 ・顕宗天皇の父)とその弟の御馬皇子(みまのみこ)をも謀殺し、政敵を一掃して11月に大王の座に就いた。即位後も人を処刑することが多かったため、後に大悪天皇と誹謗される原因となっている。
 平群真鳥(へぐりのまとり)を大臣に、大伴室屋(おおとものむろや)・物部目(もののべのめ)を大連(おおむらじ)に任じて、軍事力で専制王権を確立した大泊瀬幼武大王(雄略天皇)の次の狙いは、連合的に結び付いていた地域国家を大和政権に臣従させることであった。特に最大の地域政権吉備に対して反乱鎮圧の名目で屈服を迫った(吉備氏の乱)。具体的には、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや ・463年)や吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ ・463年)の「反乱」を討伐して吉備政権の弱体化を進め、さらに雄略天皇の崩後に起こった星川皇子(母が吉備稚媛)の乱を大伴室屋らが鎮圧して(479年)、大和政権の優位を決定的にした。『日本書紀』には他に、播磨の文石小麻呂(あやしのおまろ・469年)や伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ・474年)を討伐した記事が見えている。 
 伊勢神宮外宮を建立。  元々、豊受大神は葛城氏が代表して奉祀しており、葛城氏没落後、あまり省みられなかったが、崇敬の声が大きくなり、丹波国にも祀られていたものを、雄略天皇22年(崩御前年)に外宮を設立することで収拾を図ったのではないかとする説がある。

 古事記』では、即位前の雄略天皇に対して、大長谷王(おおはつせのみこ)という表記がたびたび見られる。
通常、即位前の天皇に命(みこと)の称号を用いる『古事記』に於いて、王(みこ)の称号が用いられているのは、異例。

 以上引用 ばかり・・。
 もしかすると・・ この天皇は、この国が「おかしな方向に ぶれて行くのを・・」引き戻した。
 の。。。。。か。

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