SSブログ

城柵(じょうさく)  「つれづれ樹」   [育まれる(歴史)]

城柵(じょうさく) 桓武天皇 坂上田村麻呂 阿弖流為(あてるい) 蝦夷(えみし) 何故にヤマトは蝦夷討伐を行ったのか。 中国大陸の侵攻に備え列島を統一する必要があった 東北地域はネイティブ(縄文びと)の棲みかだった。 “ワ~らを何ゆえ憎み殺す!” 都ビトは“大陸からの逃れ人”渡来人だから。 ネイティブ「蝦夷(えみし)」 一族には、それぞれの紋章があり、一族は紋章が描かれた族旗と共に行動した。結婚には、労働力の減少・増加という側面もあったが、部族同士の平和的共存を実現する手段でもあった。 蝦夷の色は、赤と黒。 主に女性のシャーマンが神がかりし、神の意思を仲介した。 侵略者・坂上田村麻呂が東北の人たちに信奉されている





 城柵(じょうさく)
  http://www.pref.akita.jp/hotta/outline/josaku/josaku.html
  7世紀中頃になると、中央では天皇を中心とした貴族が、律令をもとに支配体制を強めていった。都としては藤原京(697年)、平城京(710年)が造られ、全国は60余の国に分けられて国府が置かれた。国の中には郡、郷、里が置かれ、住人は戸籍に登録されて税が課せられた。
 東北地方では、太平洋側に陸奥国、日本海側に出羽国が置かれたが、その北方には国の直接的支配の及ばない広大な土地が拡がっていた。
 中央では都を造営するのと同時に、この北方の土地と、そこに住む人々を国家の領域の中に取り込んで行くことが、課題となった。そこで律令国家は、この支配領域の拡大と蝦夷の公民化を実現するための政策を展開した。城柵は、国家がそうした政策を実行するために設けられたのである。
 陸奥・越後・出羽の三国では、諸国の守の職掌のほか、特別に「饗給、征討、斥候」の職掌が与えられていた。饗給とは、宴会を催し、禄物を与えて懐柔することである。征討とは、軍事力で蝦夷を討つこと、斥候とは蝦夷の動向を探ることである。これが律令国家の蝦夷政策の基本であった。
 城柵には国司四等官、史生、鎮官などの中央派遣官が城主あるいは城司として駐在した。城司の下には兵士が駐屯していた。まだ国家側に充分に服属していない蝦夷の攻撃に備え、必要に応じて蝦夷を攻撃するためである。
 他の地域から、柵戸と呼ばれる強制的な移民が行われ、彼らを公民として郡が設けられた。公民は城柵に保護される一方、租庸調・兵役・労役などを負担し、城柵を支える基盤となった。また、服属した蝦夷は、後に公民となって姓を与えられ、課役を賦課された。
 律令制支配が浸透せず、まだ国家に服属しない、より北方の世界の人々とは朝貢関係を保ち、物資の交易を行うことも重要な任務であった。朝貢・交易を通して、それらの人々の住む村々を統轄することも必要であった。さらに、沿海州方面の政治的情勢にも国家として対処しなければならなかったのである。
 城柵の中央部には、国府政庁に類似する構造の政庁があり、その周囲に実務的役割の建物が配される。それらの外周を築地、柵木、土塁などの外郭区画施設で囲み、それには櫓状建物が付設されることもある。
 政庁があるのは、城柵に中央からの派遣官が駐在して政務や儀礼を執り行うからである。外郭施設や防禦施設があるのは、城柵が軍事的性格をも合わせ持っているからである。
 城柵は、国家が北の辺境においてさまざまな政策を遂行するための拠点として造られた、行政と軍事の機能を合わせ持つ施設であったのである。



「メモ」
 城柵(じょうさく)
 桓武天皇 坂上田村麻呂
 阿弖流為(あてるい)  蝦夷(えみし)
 何故に ヤマトは蝦夷討伐を行ったのか。
 中国大陸の侵攻に備え 列島を統一する必要があった
 東北地域は ネイティブ(縄文びと)の棲みかだった。
 “ワ~らを 何ゆえ 憎み殺す!”
 都ビトは “大陸からの逃れ人” 渡来人だから。。。
 
 
 ネイティブ「蝦夷(えみし)」
 一族には、それぞれの紋章があり、一族は紋章が描かれた族旗と共に行動した。
 結婚には、労働力の減少・増加という側面もあったが、
 部族同士の平和的共存を実現する手段でもあった。
 蝦夷の色は、赤と黒。
 主に女性のシャーマンが神がかりし、神の意思を仲介した。

 侵略者・坂上田村麻呂が東北の人たちに信奉されている




 

 “ワ~らを 何ゆえ 憎み殺す!”  という阿弖流為の言の葉がすべてを顕してる。

 桓武天皇(737~806)は 平城京を捨て 山城国へ遷都 
  長岡京への遷都を謀るが 平安京へ最終的に遷都。
  天武天皇の流れが断絶したことによって 天皇に赴いた。。。。。
  天智天皇の系統 に戻った歴史的流れが 存在した。 
  城柵を築いて 積極的に蝦夷東征を行った。

  何故か?
  国内統一が急務だったと仮説すれば 頷ける点もある。
  “纏ろわぬ者たち”を 平定すること。


  何故 蝦夷と都びと は、対立したのか

  都びとは 中国大陸からの 渡来人だった。
  それだけのこと、


  この国は 弥生の時代に 完全に中国に征服されています。。。



 




火怨北の英雄アテルイ伝
http://www.nhk.or.jp/jidaigeki/aterui/html_aterui_midokoro.html
「東北人の勁(つよ)さ」  …西岡琢也(脚本家)
脚本依頼が来た時、丁度自作の小惑星探査機の映画が公開中だった。宇宙から一気に千数百年引き摺(ず)り戻された按配(あんばい)だ。 遠い昔、中学か高校で習った「坂上田村麻呂」しか知らない世界だった。「阿弖流為」の「弖」の字が三日、読み違えた。原稿にはカタカナでなく、意地で「阿弖流為」と漢字で書き続けた(因みに小生は未だに2B鉛筆で手書きデス)。 西部劇だと思った。理不尽な暴力で西へ侵略する開拓者に抗(あらが)う、ネイティブ・アメリカンの物語と似ている。『ソルジャー・ブルー』みたいなニューシネマの西部劇で行けばいい。しかし厄介(やっかい)なのは、今も侵略者・坂上田村麻呂が東北の人たちに信奉されている事だ。この日本的なねじれが愛おしい。日本人の、東北人の勁さかも知れない。 BS時代劇「アテルイ伝」演出にあたり  …佐藤峰世(演出) 古代の東北には「蝦夷(えみし)」と呼ばれた人々が暮らしていた。彼らの文明がどのようなものであったかは、大学の先生方にお聞きしても、明確な答えは返ってこない。彼らは何ら弁明する手段をもたず、沈黙のまま歴史の闇に消えていった敗者である。しかし、私たちは、彼らの独特な「価値観によって支えられ、独自の社会構造と習慣と生活様式を具体化し、それらのありかたが自然や生きものとの関係にも及ぶような、そして食器から装身具・玩具にいたる特有の器具類に反映されるような」ものを、集積し、創造し、映像化しなければならない。そのために、下記の事柄を発想の基点とする。 1) 蝦夷の社会は部族社会。族長を代表とし、血族を中心とした100人程からなる祭祀共同体であり、同時に軍事共同体でもある。共同体には掟(おきて)があり、掟からの逸脱は許されず、神々に支配された社会であった。阿弖流為は、一族の構成員を神々の呪縛から解放し、人間の誇りを獲得するが、神々から罰を受ける。一族には、それぞれの紋章があり、一族は紋章が描かれた族旗と共に行動した。結婚には、労働力の減少・増加という側面もあったが、部族同士の平和的共存を実現する手段でもあった。 2)蝦夷のアイデンティーは、縄文・続縄文文化の流れを汲む「狩猟・漁労」文化にある。秋の鮭漁。狩猟(鹿・熊・他小動物)。蝦夷の色は、赤と黒。ヤマトの色は白。 3)ヤマトの文化も受け入れ、複合文化を形成していた。農耕・水田稲作・鉄器の利用・埋葬方法(古墳)など。また、百合根からでんぷん質を摂取していた 4)祭しは祖霊崇拝・自然崇拝を中心としたシャーマニズムであり、主に女性のシャーマンが神がかりし、神の意思を仲介した。また、一族の構成員が神と共に遊べる楽しい場であった。 5)アテルイは、自らの文化・文明と、ヤマトの帝(ミカド)を中心とした律令(中央集権)国家の違いを認識した後に、蝦夷連合を組織し、自らのアイデンティーと土地と文化・文明を守るために、ヤマトとの戦争を決意する。ヤマトは、蝦夷の地に城柵を建設し、その周辺にヤマトからの移民を送り込み、蝦夷の土地を奪った。アテルイは、北上してくるヤマトの侵略を、胆沢の地でくいとめる為に、最後まで戦う。その死の三年後、桓武天皇は蝦夷征伐中止を宣言することとなる。 6)アテルイは戦争に敗れる。そして、投降する。ヤマトに虐げられてきた少数者の代表者として、ヤマトの民に語りたいことがあった・・・。戦争により自らの土地とアイデンティーを守ろうとした自分は愚か者であった。愚か者ではあるが、自分はヤマトの民と同じ人間である。同じ人間である以上、理不尽な差別は許さない。そして、里人たちに言い残した言葉あった。「故郷を追われても、いつかこの地に帰れ」 7)蝦夷は部族同士の戦に備え、ヤマト(大伴氏)との交易で馬を入手し、自ら馬を飼育していた。中には、アテルイのように、騎射の術に秀でた者もいた。 8)蝦夷の里には、季節ごとの花々が咲いている。

「東北の森」  …真鍋斎(制作統括)
このドラマの主なロケ場所は、当然のことながら東北でした。とりわけ東北の森はとても美しく、ロケ現場のけん騒の切れ切れに、風で木の葉がこすれる音が聞こえてきて、とても豊かな空間だと感じました。 そんな東北の深い森の中で、ふん装をした出演者の方々がお芝居をすると、まるで本当にその時代にタイムスリップしたかのような錯覚を覚えるほど、東北の自然とふん装とお芝居がマッチしていました。さらに、出演者の方々は、違和感なくそこに存在していながら、自然に負けない存在感を放っています。その絶妙なバランスが、このドラマの魅力のひとつでもあります。 東北の美しい自然を存分に感じながら、人間ドラマを楽しむ、このドラマを見ていただくとそんなぜいたくを体験することができると思います。 このドラマを見て、東北の皆様には、今一度自分たちの立つ場所を再発見していただき、それ以外の地域の皆様には、見たこともないようなステキな東北を発見していただければ幸いです。




007b.jpg


IXYDIGITAL60(ISO50)&PHOTOSYOP
< 生業ですが、アバウトです! お気に召せば 遡って画像は ご自由に転載&ご利用下さい。 >
太郎さんのお薦め
 
 【杉本商会】 
    http://web1.kcn.jp/ishi_hal/Welcome.html
    (木工芸・杉玉・お茶を 扱われてます。)

 【十津川荘】
    http://www.102k.net/
    (十津川行くなら 太郎のお薦め!!!!)

以下は、エキサイト翻訳になります。
Castle barrier When it became about the middle of the http://www.pref.akita.jp/hotta/outline/josaku/josaku.html 7th century, in the center, the aristocrat centering on the Emperor strengthened rule organization based on legal codes of the Nara and Heian eras. As a capital, Fujiwarakyo (697 years) and Heijokyo (710 years) were built, the whole country was divided into 60 or so countries, and Kokufu was placed. A county, 郷, and a village were placed into the country, the resident was registered into the family register, and the tax was imposed. In the Tohoku district, although Mutsu was placed on the Pacific Ocean side and Dewa was placed on the Sea of Japan side, in the north direction, the vast land which the direct control of a country does not attain to had spread. In the center, at the same time as it erected the capital, it became a subject to take in the land of this north direction and people that live there into a national domain. Then, the legal-codes-of-the-Nara-and-Heian-eras state developed the policy for realizing citizen-ization of expansion of this rule domain, and Ezo. The castle barrier was prepared in order that a state might implement such a policy. In Mikuni in Mutsu, Echigo, and Dewa, the work of "饗給, conquest, and scouting" was specially given for everything but the work of Mamoru of countries. 饗給 is holding the party, and giving and conciliating 禄物. Conquest is shooting Ezo with the military strength, and that scouting explores Ezo's trend. This was the foundations of the Ezo policy of a legal-codes-of-the-Nara-and-Heian-eras state. Central dispatch officials, such as a provincial governor 4 grade official, Fumio, and a 鎮 official, resided at the castle barrier as a daimyo with a castle or Joji. The soldier was being stationed under Joji. It is for preparing for an attack of Ezo who has not fully been subjected to the state side yet, and attacking Ezo if needed. From other areas, compulsory immigration called 柵戸 was performed and the county was prepared by making them into a citizen. While the citizen was protected by the castle barrier, it paid So-Yo-Cho tax, military service, labor, etc., and became a base supporting a castle barrier. Moreover, subjugated Ezo became a citizen, and could give the family name to behind, and 課役 was imposed on him. People in the north world were duties also with an important thing which system-of-the-ritsuryo-legal-codes rule does not permeate, and are not subjected to a state yet and for which tributary relations are maintained more and goods are traded. It was also required to superintend 村々 in which those people live through giving a tribute and trade. Furthermore, the political situation of the direction of the Maritime Province also had to be coped with as a state. In the central part of the castle barrier, the government office of a structure similar to the Kokubu government office is located, and the building of a practical role is arranged on the circumference. Those perimeters are surrounded with outline division institutions, such as Tsukiji, Sakugi, and 土塁, and a tower-like building may be attached to it. It is because the dispatch official from a center resides at a castle barrier and that there is a government office holds political affairs and courtesy. There are outlying facilities and a defense institution because the castle barrier also has military character. The castle barrier was the institution having administration and the function of military affairs built as a base for a state to carry out various policies in a north frontier district. "Memo" Castle barrier Emperor Kammu Sakanoue no Tamuramaro Aterui (it hits -- it is) Ezo (えみing) -- why Did Yamato perform Ezo subjugation? It prepares for invasion of the China continent. Northeast area which needed to unify islands The native (縄文び) lived and it was か. "ワ [ ] ? and others -- it hates why and kills! " Capital ビト Because "continent is escaped and it is a person" visitor. . . Native "Ezo (えみing)" The whole family has each crest and the whole family acted with 族旗 on which the crest was drawn. Although there was also the side of the reduction and the increase in the labor force in marriage, it was also a means to realize tribes' peaceful coexistence. Ezo's colors are red and black. Female Sherman mainly carried out the conjuror and it mediated the intention of God. Northeastern people believe in an aggressor and Sakanoue no Tamuramaro. "ワ [ ] ? and others -- it hates why and kills! The leaf of the word of Aterui "expresses all. Emperor Kammu (737?806) Heijokyo is thrown away. The capital is transfered to Yamashiro. Although the transfer of the capital to Nagaokakyo is planned Finally the capital is transfered to Heiankyo. Emperor Temmu's flow severed. It advanced to the Emperor. . . . . Emperor Tenchi's system The historical flow which returned It existed. A castle barrier is built. Ezo conquest of the East was performed positively. Why is it? If a hypothesis is carried out to domestic unification having been pressing need There is also a point which gives a nod of assent. "纏ろわぬ persons" Suppress. Why Ezo and 都び Was it opposed to each other? 都び From the China continent He was a visitor. Only it This country In the time of Yayoi It is completely conquered by China.





nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 0

nice!の受付は締め切りました

コメント 0

Facebook コメント

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。