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卑弥呼②  [つれづれ樹]   [育まれる(歴史)]

 
 魏志倭人伝 (西晋の陳寿 290年以前に著述)。
 には、卑弥呼(邪馬台国)の記述が見られます。

 ところが、
古事記(720年)には まったく 見られない。

日本書紀には 神功皇后(170~269年)記には 倭の女王から魏への朝貢の記述が見受けられる。



 440年続いた漢が滅んだのが 220年。
 魏呉蜀(220~280年)の時代。
北方には 匈奴があり、“南圧”を強めます。
朝鮮半島は 12の国が乱立し、楽浪郡は漢の傀儡です。
高句麗は 北方の騎馬民族とされます。

 魏呉蜀の時代の日本は、弥生時代後期にあたり、
倭国の大乱~邪馬台国(?)~古墳造営時代


 この時代の 日本は倭国の大乱に見られるように 戦国時代だった。
それ以前の日本社会は 統一された国家ではなかったとしても、部族が独立的に均衡を持った状態であったとも考えられます。
そこに 新興勢力が台頭し 大きな内乱の時代が訪れた。。。。。

倭国の大乱後に現出するのが 巨大古墳時代です。
巨大な古墳の造営目的は 勢力の誇示と支配地域の宣言でしょう。
大乱後も 国家統一は出来ていなかったと考えられる。


 この時代に 存在したとされるのが、卑弥呼の邪馬台国になります。
魏志倭人伝には 明確に 邪馬台国の記述がある。
日本書紀には 曖昧な表現ではあるが、邪馬台国の存在を示す 記述がある。

古事記には 邪馬台国の記述は ありません。


 この事実に 辻褄の合う回答は、
魏呉蜀の時代に 魏には 日本にチョッカイを出すような 余裕はどこにもない。。。。。
ならば 年代的にも、倭国の大乱時の 新興勢力は「後漢」によるものです。
大乱後 統一国家が存在しなかった 最大の理由は 「220年に 漢が滅亡してしまった。」
このために 漢の“後ろ盾”を失ってしまった勢力は、 一定の力を持ちながら 勢いを失ってしまったと 考えられます。

これが、
魏志倭人伝に 邪馬台国が 正史として記述されているにも関わらず、古事記では 語られていない理由になります。


 それなら、日本書紀には 曖昧ながら邪馬台国をにおわせる記述があるのでしょう?
それは、日本書紀が漢文で記述されてるからです。
日本書紀の 最大の謎 「天皇家に不都合な記述が 多すぎる。」
日本書紀は 新興勢力の中臣氏の藤原不比等が 古事記を抹殺する替りに 作ったものです。

 藤原不比等に代表される 中臣氏は 漢族とすれば “つじ も つま”も 合致してきます。。。。。


http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/yamataikoku.html
弥生の墳丘墓は、最初に山陰地方の出雲や瀬戸内地方で造られはじめ、やがて大和や丹波、遠くでは関東の干葉県でも造られるようになります。 卑弥呼が死亡したのは、『魏志倭人伝』などの文献によって、3世紀中ごろの247年か、248年 古墳時代の開始を3世紀中ごろとするのがむしろ大勢となっています。卑弥呼の死亡時期とピタリと重なってきます。 「イチは現代に至るまで神に仕える女性を意味している。語の起こりはイツキメ(斎女)であったろうが、また一の巫女(みこ)などとも書いて最も主神に近接する者の意味に解し、母の子とともにあるときは、その子の名を小市(こいち)または市太郎とも伝えていた」 大神神社は、もともと出雲氏の氏神的な神社だったようです。 「記紀」には邪馬台国のことが何も書かれていません。邪馬台国という名も、卑弥呼も、台与も、男弟の存在も、何にも書かれていません。 『魏志倭人伝』には、邪馬台国や卑弥呼ばかりでなく、当時の日本の様子が具体的に描かれています。 籠(この)神社  始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)から9代目の孫のところに、「日女命(ひめのみこと)」と出てきます。この「日女命」の脇に、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、「またの名を神大市姫命」、「日神ともいう」などと記されています。 主祭神の彦火明命を丹波国造の祖として、以後、今日まで海部氏が代々続いており、現在は82代目の海部光彦さんです。 籠神社には、2000年間にわたり伝世されてきた息津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)と呼ばれる秘蔵の鏡も2面あります。 (辺津鏡)は、紀元前1世紀後半の前漢鏡(内行花文昭明鏡)、もうひとつ(息津鏡)は、紀元後1世紀の後漢鏡(長宜子孫内行花文鏡) 「宮津」とは、大きな宮のそばにある港 古代には、現在の京都府と兵庫県の中部北部合わせた全部を丹波と呼んでいました。 丹後半島中央部の弥栄(やさか)町、奈具岡(なぐおか)遺跡では、紀元前1世紀頃ごろ(弥生時代中期後半)の鍛冶炉や、玉造りの工房が見つかってい ます。 天橋立の籠神社に伝わる「海部氏系図」という国宝の系図によりますと、ニギハヤヒは河内の国に天降ったあと、大和国の鳥見(とみ)の白辻山(生駒山付近)に移った 物部氏は朝鮮半島の百済とも関係が深い氏族といわれていますが、その活動が活発になってくるのは、じつは5世紀ごろからです。これは河内王権の拡大とはっきり歩調を合わせていて、河内から大和に進出し、河内王権を支える武力勢力として基盤を確保していきます。 島根県大田市に石見国一ノ宮の物部神社 継体王朝と関係がある 1984年夏、島根県斐川町の神庭荒神谷(かんばこうじんだに)遺跡で、358本の銅剣が出土 1996年秋、今度は、神庭荒神谷遺跡から3キロほど離れた加茂町の加茂岩倉遺跡で銅鐸が39個も出土 『出雲国風土記』によると、加茂岩倉遺跡や神原神社古墳のある大原郡加茂町のあたりを「神原(かむはら)の郷(さと)」 紀元前2~1世紀ごろというのは、日本の古代史ではかなり古い時代です。大和朝廷(三輪王朝)の成立を西暦300年ごろとすると、それよりも400年以上前の時代です。その頃、出雲は近畿や九州から銅鐸や銅矛が集まってくる立場にあった 紀元前1世紀ごろの倭国のことを書いた『漢書地理志』によると、当時の日本は「分かれて百余国となる」とあります。 天孫族と出雲族はアマテラスの弟がスサノオであるように、高天原出身の同じ一族
 
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【ベタ(scope)】
 
 魏志倭人伝(西晋)による 日本列島の記述では、
邪馬壹國 (女王之所都)
邪馬國
などが出てきます。

邪馬壹國が その他20数か国のリーダー的存在のようですが、
それぞれに 独立した形態のようです。
対立する国もある。

何故、
「女王國」という記述が為されるのでしょう?
邪馬壹國は そのまま“邪馬壹國”と 普通は記述される。
なにか 訳があるのか。。。。。



“ 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 ”

“ 次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國 ”



■【壱】【壹】
白川静の字統より
【壱】【壹】
イツ・イチ
もっぱら・ひとつ
<象形>旧字は壹に作り、壺の形。壺中(こちゅう)のものが醗酵して、中にみちる状態をいう。〔説文〕十下に専一の義とし、「壺に從ひ、吉聲」と形声に解し、〔段注〕に亦声(えきせい)の字であるという。古い字形がなくて初形を確かめがたいが、壺中の形はいわゆる毎氣(いんうん)の気をしるしたもので、〔誼楚文(そそぶん)〕の字形では、なかを
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